3/24 ウクライナツーリズム

戦争中も日本の列車は動き続けていた。たとえば、1945年8月15日。前日に上野をたった青森行き103列車は定刻より247分も遅れて5時35分に盛岡にたどりつく。ここでいったん運休になるも、各駅停車の113列車として北へ。涙ぐましい奮闘である。

先ごろ、さいたま市鉄道博物館の企画展で当時の運行記録を見て、先人の労苦に思いをはせた次第だ。鉄路を守るための同じような努力が、戦時下のウクライナや周辺国でも重ねられているに違いない。岸田文雄首相がキーウ訪問のために使った交通手段は鉄道だった。ポーランド南東部のプシェミシルから延々10時間の夜行である。

上空はロシアのミサイルがいつ飛んでくるかわからない。だからこの鉄路がキーウと西側を結ぶ生命線になっているという。多くの難民がなだれ込む町でもあるプシェミシルをあとにした首相は、夜汽車の中でどんな思いを抱いたのだろう。国境を超え、春まだ浅い大平原で迎えた朝をどのように記憶しただろう。

欧州ではいま、脱炭素の風を受けて鉄道復権が進んでいる。戦禍のもとでも思わぬしぶとさを見せる列車が、復興したウクライナをツーリスト満載で疾走する未来図を思い浮かべてみたい。そのために日本ができることだって多々あるはずだ。かつてこの国は、終戦から4年で東京大阪間に特急「へいわ」を走らせた。