5/20 西鉄の怪童のDNA

いまでは不可能だが、戦後のいっとき、春の選抜高校野球に新1年生が出場したことがある。学制改革による特例だった。高松一高の3番打者もその一人。併設された中学の3年生ながら秋の大会で活躍し、甲子園の土を踏む。後に「怪童」と呼ばれる中西太さんである。

早稲田大進学を目指したが経済的事情で西鉄へ。行商をなりわいとする母が「フトシ、かんべんしてくれ」と、泣きながら契約書に判を押したという。日本中が貧しかった。いきなり新人王を獲得し、西鉄の主軸を担う。劇的な逆転リーグ優勝を遂げた1956年は「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言した年である。

戦後プロ野球の礎を築いた強打者の訃報が伝えられた。本人も認める通り、豪放磊落(らいらく)のイメージは見せかけで、努力の人だった。チームメート、大下弘さんの「奔放」に対し、中西さんは「真摯」。これは義父でもあった三原脩元監督の評だ。積み重ねの重みを知るからこそ、打撃コーチとしても手腕を発揮したのだろう。

黄金時代を築いた野武士たちが次々と鬼籍に入るなか、「西鉄のDNAを少しでも伝えていくのがお遍路たる私の役割だ」と語っていた。つい先日、NHKの番組で栗山英樹さんと語り合う姿を拝見した。2人とも三原元監督を師と仰ぐ。真摯に白球と向き合った怪童のDNAはきっと、侍ジャパンにも受け継がれている。