6/6 生成AIの恐怖

20世紀最後の年。ホンダが二足歩行ロボット「ASIMO」を発表したときの記者会見は、当時のわくわくした気分とともに記憶に残る。背丈は小学生くらい。ずんぐりした体つき。腰を少し落とし気味に両手を振って歩き出すと、報道陣から歓声がもれた。

その姿が一生懸命に見えて「転ぶなよ」と心のなかで声援を送っていた。機械に感情移入してしまう自分がおかしかった。ロボット学者から「不気味の谷」という言葉を教わったのもその頃だ。ヒト型ロボットは見た目やしぐさが人間に近づくほど親しみがわく。が、似すぎると一転して見る者は不快な感情を抱くという。

たしかにその後、進化したヒューマノイドには恐怖を覚えた。ろう人形の不気味さも同質だろう。なぜ人間は自分の似姿に恐怖や嫌悪を覚えるのか。心理的カニズムは分かっていない。人間に近づきすぎたゆえに畏怖をかき立てる存在といえば、チャットGPTをはじめとする人工知能(AI)をめぐる議論がかまびすしい。

「人類に絶滅をもたらすリスクがある」と先週は専門家ら350人が声明を出した。思えばこれまで技術は何かを「実現したい」という人間の欲望を原動力に進歩してきた。だが、生成AIは誰のための開発かが判然とせず、技術があたかも自律して進化しているように見える。だとしたら、何とも不気味である。