4/16 直筆の文字が持つ力

先週末、法事で京都に出かけた。境内の咲き残った枝垂れ桜に、キツネの嫁入りが降りかかる花冷えの一日。浄土真宗一派の古寺で南無阿弥陀仏を聞く。折しも、親鸞聖人の生誕850年を記念する展覧会が開かれているというので、そのまま国立博物館に足を向けた。

聖人自筆と伝わる経典の注釈に目が釘(くぎ)付けになった。紙の上下余白を埋め尽くすように、びっしりと細かい文字で書き込みがされている。学究に打ち込む者のただならぬ気迫に圧倒される。はるかな時を超えて、あせない墨跡から立ちのぼる息づかい。確かにこの人物は生きて存在したのだ。その手応えに深く感じ入った。

経典や旧仮名の書は読めないから、普段この種の展示では絵巻や彫像ばかり見てしまう。だが今回は違った。あまたある座像や、どんな絵師の手になる肖像画よりも、本人手書きの文字は雄弁に語りかけてきた。なぜか。音声ガイドの研究員の説明を聞いて腑(ふ)に落ちた。筆跡はその人の内面、生身の姿を映すからなのだと。

現代人はメールやSNSを通し日々、大量の文字を残している。何かと話題の人工知能(AI)「Chat(チャット)GPT」は、これからその何倍もの、ほぼ無限のテキストデータを生むだろう。だが、それらを800年後の人々が呼び出したとき、果たして同時代を生きた人間の温かい息吹まで感じとれるだろうか。