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50年前の5月30日、イスラエルの空港で20代半ばの日本人3人が自動小銃を乱射した。手投げ弾も使われ、死傷者は約100人に上った。「涙さそう幼女の遺体」。惨劇を伝える本紙の一報には、佐藤栄作首相が「日本人がそんなことをやるかね」と訝る様子も見える。

のちに国際テロを繰り返す日本赤軍の、世界を震わせた最初の犯行だった。その3人と行動を一時ともにし、2000年に潜伏先で逮捕され服役していた重信房子元最高幹部が、きのう出所した。乱射事件から半世紀の節目と重なるのは何かの巡り合わせか。マスクをつけ謝罪する姿には、移ろった時間の長さがにじんだ。

バーシムにサラーハ。パレスチナとの連帯を掲げた日本赤軍メンバーは、互いをアラブ風の名で呼んだ。若者とテロの文脈で引き合いに出されるオウム事件でも「ホーリーネーム」が使われたことを思う。うかされたように青くたぎる心と、まだ何者でもない自分。その落差を前に、目指す先の名を借り己を鼓舞したのか。

時代の熱風にあおられたにせよ、無差別に市民を殺して遂げる革命などあるはずもない。服役中に自身の幼少期を詠んだ歌がある。「ランドセルまにあわなかった入学式泣きそうだったのは私でなく母」。だが空港で死んだ幼女は入学すら叶(かな)わなかった。若き過ちはなぜおきたのか。自由の身でこそ、できる総括もあろう。

 

2000年に潜伏先で逮捕され服役していた日本赤軍重信房子元最高幹部がきのう出所した。若き日の過ちはなぜ起きたのか、出所後の自由な身でこそできる総括もあろう。いまから50年前の5月30日、イスラエルの空港で日本人の若者3人による銃乱射事件が起きた。後に国際テロ組織になる日本赤軍の最初の犯行である。青くたぎる心とまだ何者でもない自分。その落差を前に、自らを鼓舞したのか。無差別に市民を殺して遂げる革命などあろうはずもないのに。