3/15 大江健三郎さん

四国の谷間の村と森。訃報が伝わった大江健三郎さんは、生まれ育った愛媛県内子町大瀬地区を多くの作品の舞台とし、感性のよりどころともした。1992年に出版した講演集「人生の習慣(ハビット)」には、文学生活の中で幸運だったこととして、こんなふうな一節が残っている。

敗戦という出来事や大学で導いてくれた仏文学者の思想などが、自分の生まれ育った周縁の谷間のものの考え方、宇宙論、人間観などを再確認させてくれるものだった。戦後民主主義という翼に加え、自由な読書と想像力というエンジンで高く舞った大江少年は、やがて時代の閉塞状況を粘っこいスタイルでえぐっていく。

核がまん延する世にあり、障害を持って生まれた子との共生を模索した。一方で、変革を目指すコミュニティの運動と挫折を、ダンテら世界文学を引きつつくり返し描いた。山口昌男さんとの交流から文化人類学の知見も得て、作品の視座は地球規模に。現実と神話の混交を描いた文体の緊迫度は、さらに高まった。

家族との日常や自らの交友関係から生の哀歓をつづる短編でも、英国の詩人を自在に引用し、旧来の私小説の枠を押し広げた。谷間の村という小宇宙の文化が、ノーベル文学賞に値する普遍性を持つということを証した作家生活でもあったろう。88歳の生涯を終えて、その魂は懐かしい四国の森の木の根方に戻っていった。