6/2 霧島の名

与謝野晶子は1929年夏、夫と鹿児島・霧島を旅した。晶子には初めての土地だ。「華やかに鳴る山川を数しらず脈とするなり若き霧嶋」。霧島連山の絶景に感激したのだろう、躍動感ある歌をいくつも詠んでいる。同じ年のうちにこの旅を主題にした歌集も出した。

人々を魅了してきたその秀峰の麓に生まれ、しこ名に戴(いただ)いたのが元大関霧島(現陸奥親方)だ。細身に練り上げた怪力。巨漢を吊(つ)り出す和製ヘラクレスは痛快だった。が、大関陥落の後も現役にこだわった姿もしみじみ印象に残る。難病の人や浪人生ら逆境にある人からの声援が後年多かったと、ご本人も振り返っている。

大勢の記憶に刻まれたその名が復活すると聞き、驚きつつうれしくなった。大関に昇進した霧馬山に陸奥親方が「霧島」を譲る。育てた名を育ち盛りの弟子が継ぐ喜びはいかばかりか。会見では「いらないと言われたらどうしようと心配した」と苦笑した親方だが、表情からは幸せがにじみ出ていた。見る側の頬も緩んだ。

貧しかった幼少期、親方は学校の行き帰りに霧島の峰を見上げた。うれしかったこと、悲しかったことを語りかけると、自分を理解してくれる気がしたという。師匠を育んだ山並みは緑もえる季節。「夕ぐれに強力(ごうりき)のごとたのもしき山おろしこそ吹きいでにけれ」(晶子)。若き霧島の背中も、力強く押してくれるだろう。