1/16 海の酸性化

吉田健一の「私の食物誌」は、読んでいるとお腹のすく本である。この作家特有の文体でさまざまな土地の食べものが称揚されているが、白眉は「広島の牡蠣」だろう。いわく「広島のを食べると何か海が口の中にある感じがする」。いまから半世紀も前の随筆だ。

「牡蠣というのがもともと消化剤に似た役目をするものらしくてこの牡蠣を二、三十食べるのは何でもない」というから恐れ入る。もっとも、新鮮なやつにレモンを滴らせて殻から口に運べばたしかに後を引く。吉田は広島産を褒めたが、もちろん宮城、岡山、兵庫、岩手、北海道、三重、みんないい。鍋もフライもいい。

喜んでばかりもいられないようだ。地球温暖化の影響は、この美味なる二枚貝にも及びつつある。海水温の上昇だけでなく、海水が吸収する二酸化炭素(CO2)の濃度が高まることで生態系が大きく乱されるという。いわゆる「海の酸性化」だ。貝類などは殻や甲羅を作りにくくなり、被害をいちばん受けやすい。

いま、まさに牡蠣は旬。店頭にはむき身や殻付きもあふれているが、まだ海が海であることを僥倖と思わねばなるまい。ちなみに広島産を絶賛した吉田も随筆のなかで、当時の公害による瀬戸内海の水質汚染をひどく憂え、生食できる楽しみが「いつまで続くか」と一文を結んでいる。そのときより、はるかに危機は深い。