5/14 命賭けの出産

生涯で10人を超える子を産み、育てた与謝野晶子がお産のつらさを書き残している。6度目は双子だった。「産褥の記」によると、「飛行機のような形をした物」がおなかから胸へ上る気がし、窒息するほどに苦しんだ。7、8日間はまったく一睡もしなかった、とある。

自身が病院で出産するのははじめてだった。見守る医師や看護師に心強さを感じつつ、死をも意識したという。悲壮感ただよう心情をこう詠んだ。「生きて復かえらじと乗るわが車、刑場に似る病院の門」。さらには、子どもを産まず、女性を見下すような男を、「命を賭けないくせに」とののしった。さも激情の人である。

我が身を重ね、共感する女性もいるだろう。医療が進歩しようとも出産が一大事であることに変わりはない。命を賭けるという表現は大げさではないのだ。日付も呼び方も違うが、世界各地で母親に感謝を伝える日が定められているのは当然であろう。米国を由来とする日本では5月の第2日曜日、きょうが「母の日」だ。

ちなみに1世紀ほど前、日本の人口は年に数十万人のペースで増えていった。「女性=母」の発想を批判する晶子は、「この多産の事実について厳粛に反省せねばならない」(「母性偏重を排す」)とも書いている。いま、同じ斜度で坂を下る私たちを見て、彼女なら何を語るだろうか。ちょっと聞いてみたい気がする。

5/13 他者と関わる距離について

村上龍村上春樹。2人の作家の対談本「ウォーク・ドント・ラン」にこんな問答がある。あれの続きを長編で書いてほしい、と龍さん。話を少し作り変えてまとめたい気はある、と春樹さん。「あれ」とは直前に発表された春樹さんの中編小説を指す。

壁に囲まれた静かで不思議な街に来た主人公は、喧騒に満ちた元の世界に戻るべきか悩む。発表から約40年。85年の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に続き、春樹さんは2度目の長編化に挑んだ。その新作「街とその不確かな壁」は発売されて1ヶ月たつが、今も都心の大型書店では売り上げ上位にある。

新型コロナウイルス禍が広がり始めた2020年春に書き始め、3年近くかけて完成させた。月刊誌「新潮」で作家の小川哲さんは、閉鎖された街の主人公とは自宅に隔離された僕たちのことだと説く。囲まれた場に残るか現実に戻るか、選択を迫られる姿は「他者と関わること」の意味を考える私たちと重なるわけだ。

だからこそ作品の支持が広がったのかもしれない。在宅か外出か。外出するならマスクで顔を隠すか素顔をさらすか。通勤、通学、レジャーと人々の行動は今もまだら模様だ。春樹さんは主人公の選ぶ道を40年間、自らに問い続けた。組織や地域、他者とどんな距離でかかわるか。一人ひとりの迷いと判断を尊重したい。

 

5/12 地震の備え

揺れが始まったとき、物理学者の寺田寅彦は上野の喫茶店で知人と語り合っていた。1923年9月1日の正午すこし前である。「椅子に腰掛けている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように」地震は襲いかかったと、「震災日記より」に書きとめている。

観察眼はさすがに鋭い。「多分その前に来たはずの弱い初期微動に気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろう」。そんなわずかな時間ののちに、関東大震災の悲劇は幕を開けた。これが現代ならば、初期微動(P波)を感知して緊急地震速報が鳴り響くかもしれない。ほんの数秒のうちにでも、火を消すことはできようか。

地震です! 地震です!」。ベッドのわきに置いたスマホ2台が激しく鳴動し、わあっと跳び起きた。きのう未明の、千葉県南部を震源とする揺れだ。夜明け前の闇のなかで、生きた心地がしなかったのは当方だけではあるまい。そして「その瞬間」への備えは確かか、あらためて思いをめぐらしている人も多いだろう。

先日も石川県能登地方で最大震度6強地震が起き、被害が出たばかりだ。関東大震災から100年。現実から片時も目をそらせぬこの地震国である。きのうの揺れのあと、枕元の書棚に乱雑に詰めこんだ本が凶器に見えてぞっとした。震災体験を機に防災減災に心を砕きつづけた寅彦の警告を、いま一度かみしめている。

5/11 ベトナムと昔の日本

「現代は『時』が距離ではかられる時代である」と歌人・劇作家の寺山修司は言った。私たちは地球上を移動してその気になれば、前近代にも原始時代にも行き着くことができる、と。特有のレトリックに、なるほど、とうなずいたのは連休中を過ごした旅先であった。

ホーチミンから飛行機で1時間半ほど移動したベトナムの地方都市。空港に降り立って気づいたのは若者が多いこと、レジャーや商用に出かける地元の人々が目立つこと。6車線からなる大通りには高層ビルが林立し、名物のバイクと並んでピカピカの外国製セダンが行きかう。赤い国旗に負けない外資の看板も目を引く。

あくまで通りすがりの旅人の印象である。だが、活気ある風景に懐かしさを覚えた。1980年代の日本とどこか似ている。国が成長し、いまより明日が豊かになると信じられた時代の空気だ。ベトナムの平均年齢は33歳。いま日本は48歳。34歳だったのが80年というから直感も全くの的外れではないかもしれない。

胸にわいたのは郷愁だけではなかった。うらやましさと少しの寂しさ。過去三十数年を日本人も懸命に生きたのだから「失われた」とは言わない。ただ、国として足踏みしている間に追いつき追い抜いていった人々の存在を肌で感じた。コロナの壁に阻まれた時は過ぎた。世界に直に触れてこそ分かることがある。

 

5/10 ナチス・ドイツの焚書

「1933年5月10日の出来事はどれ?」。在日ドイツ大使館はかつて、交流サイトで歴史に関する択一問題を発信した。正解は、ナチス・ドイツによる大規模な焚書である。この日、ベルリンの広場で、「非ドイツ的」な書物2万冊以上を燃やした、と解説している。

立ちのぼる炎と煙を群衆が見守る。「書物のホロコースト」の現場を撮影したセピア色の画像も投稿した。ユダヤ人のみならず、独裁者の思想に反する高名な作家や学者の書籍も葬ったのだ。「古きものは燃えつき、新しきものが、我々の心の炎から生まれるだろう」。ナチス政権の宣伝担当大臣は登壇し熱弁をふるった。

ドイツ大使館が自国の負の歴史を語るのは、過去に対する省察なのであろう。あれからちょうど90年である。世界は変わったのか。ロシアはウクライナ侵攻で、歴史的建造物など文化財を破壊。本紙報道によると、支配地域の公共図書館などからウクライナの歴史や文学に関する書籍を大量に押収、焼却しているという。

先の大戦と本の関係を掘り下げた米国のノンフィクション「戦地の図書館」(東京創元社)は、ナチス焚書に抗議したヘレン・ケラーの言葉を伝える。「これまで、暴君たちが幾度となく思想を弾圧しましたが、思想は力を盛り返し、暴君らを破滅に追い込みました」。真理であろう。独裁者がどんな宣伝をしようとも。

5/9 朝鮮通信使と日韓関係

鯛(たい)の姿焼きにアワビ醤油(しょうゆ)煮、キジの焼き物も。江戸時代、12回にわたり来日した朝鮮通信使を道中でもてなしたごちそうの一例だ。対馬から瀬戸内をへて江戸に向かうこの外交使節団を、人々は各地で歓待した。異文化に触れたいと、宿場で面会を求める人も大勢いた。

通信使側も長い旅路の見聞を本国に伝えた。「刀傷が顔の表にあれば勇敢、耳の後ろなら臆病とされる」。1719年の第9回通信使で編まれた「海游録(かいゆうろく)」は、当時の日本社会の風俗をつぶさに紹介している。秀吉の朝鮮出兵で傷んだ関係の修復を目的に始まった通信使は、江戸200年余を通じた善隣交流の礎を担った。

日韓首脳のシャトル外交が12年ぶりに復活した。訪韓した岸田首相に、尹錫悦大統領はプルコギや冷麺、韓国の清酒をふるまったそうだ。尹氏が3月に日本を訪れてまだ2カ月足らず。来週のG7広島サミットで再来日も予定され、その往来のテンポは確かに印象的だ。時機を逃さず、関係をさらに前へ進められたらいい。

朝鮮出兵をはじめとする過去の遺恨を巡り、通信使と日本側で論争も起きたと海游録は記している。それでもお互いを尊ぶ軸足までは崩さなかった。「礼は敬より生じ、慢より廃す」。議論が感情的に過熱しかけると、そんな自戒の言葉も出た。傲慢を排し敬意をもって接する。昔はできて、現代人にできないはずもない。

5/8 新型コロナの教訓

政治家から庶民に至るまで、終戦時の日記集を監修した永六輔さんはその筆の多くが冷静であることに驚き、こうつづった。「戦争だろうが平和だろうが、毎日の暮らしそのものは二十四時間の繰り返しで本質的に変わらないのだろうか」(「八月十五日の日記」)

戦争と疫病は違う。違うのだが、安堵も高揚もない点が近い気もする。きょうから新型コロナウイルスの法的位置づけが変わった。一つの大きな節目であろう。ただマスクはすでに「個人の判断」。一方でウイルスは消えたわけではない。日々の暮らしを重ねるなかで、グラデーションのように日常が変わっていくのかもしれない。

三密を避けてソーシャルディスタンスを。ステイホームでクラスターを防ぎましょう。聞き慣れた言葉を耳にする機会はめっきり減った。振り返れば、マスクの買い占めがあり、感染者や医療従事者への深刻な差別があった。行政や医療の欠陥だけでなく、私たちが抱える病根も浮き彫りになった事実を忘れてはなるまい。

「病むことにより、これまでよく知らなかった自己が分かる」。100歳を超えてなお診療を続けた医師、日野原重明さんの言葉である。「だから病もまた益なのだ」と説いた。卓見は社会にも当てはまろう。3年余りの長患いから何を学び、益とするか。教訓は多い。回復を静かに喜びつつ、もっと健康な体づくりに励まねば。