6/23 平和の杯

地方を訪れた際の楽しみは地元の食と酒である。先日出張した沖縄では泡盛を味わった。小さな居酒屋のカウンター。豆腐ようや島ラッキョウをさかなに伝統的な酒器カラカラで古酒(クースー)をちびり。口に含むと甘い香味が鼻に抜ける。つい杯を重ねてしまった。

古酒の製法は独特である。甕(かめ)をいくつか用意し、新しい甕から古いものへ順番に継ぎ足していく。「仕次ぎ」と呼ぶそうだ。かつては150年、300年という超長寿酒が存在した。途方もない手間と時間の産物なのだ。一口でも飲んでみたいと思うが、いまはかなわない。78年前の戦火でほとんどが土に流れてしまった。

米軍による「鉄の暴風」が迫るなか、大切な甕を地中に埋めて避難する蔵元たち。銃砲弾や衰弱で失われた命は少なくない。終戦後、一命を取り留めた蔵元が焦土の下から黒麹(こうじ)菌が付いたむしろを掘り出し、やがて仕込みを再開する――。酒造りに携わる人々の苦難の歩みを「沖縄戦琉球泡盛」(上野敏彦著)で知った。

沖縄民俗学会会長の萩尾俊章さんが21日付の本紙でこう指摘している。「『50年古酒』が世に出回り始めたのは、それだけ平和な世の中が続いてきた証し」。沖縄では「100年古酒」を育てるプロジェクトもあるという。きょうは慰霊の日。追悼の意を胸に一献傾けたい。平和の尊さもまた、五臓六腑(ろっぷ)に染み渡るだろう。

6/22 インドネシアに残った日本兵

「独立は一民族のものならず 全人類のものなり」。東京都港区の古刹、青松寺にこんな石碑がひっそり立つ。碑文を寄せたのは、インドネシア建国の父、スカルノ元大統領である。同国の独立に尽力し、当地で倒れた二人の日本人の遺徳をしのんで鎮魂の辞を贈った。

碑の裏面に2人の略歴が刻まれていた。先の大戦で日本が敗れた後もインドネシアにとどまり、同国の独立軍に参加。参謀指揮官として旧宗主国オランダを相手に戦った。が、独立を見届けずに散ったのだ。スカルノは、彼らの死を悼み、顕彰碑が1958年に建立された。縁者が訪ねたのか。日本酒が供えられていた。

私たちが学ぶ教科書は、主に権力基盤の変遷を軸に歴史を語る。「45年8月、スカルノを中心に独立宣言を発表し、建国五原則にもとづき憲法を制定した。しかし、オランダはこれを武力で阻止しようとしたため戦争になったが、インドネシアは独立を達成した」。戦争に加わった残留日本兵に関する記述は見当たらない。

独立の理念に共鳴した。戦犯として裁かれるのを恐れた。当地の女性と恋をした…。残った理由はさまざまであろう。逃亡兵のそしりも受けた。が、彼らも懸命に生きたのだ。インドネシアを訪問中の天皇、皇后両陛下は、残留日本兵の遺族と対面し、墓所に供花された。教科書が語らない歴史の余白を学ぶ契機としたい。

6/21 優生保護法の異様さ

「常習犯罪者は強制断種すべきだ」「悪質な遺伝因子を残さない制度が必要だ」。戦後まもない国会で、優生保護法の制定を訴える議員らが訴えたのはそんな主張だった。焦土の中で人口が急増することへの懸念もあり、貧困層は妊娠させるべきでないとの声すら出た。

ナチスが障害者に断種法を適用したことはよく知られる。優生思想は戦前から我が国にも入ってきていた。とはいえ敗戦を経て、基本的人権をうたう新憲法が制定されたばかり。まるで逆行する論陣が張られたわけだ。1948年、優生保護法は成立する。全会一致だった。社会が非道な差別に無頓着だった事実に慄然とする。

同法による障害者らの強制不妊問題で、国会が初の調査報告書をまとめた。約2万5千人が手術を受け、6割超で本人の同意がなかった。最年少は9歳の男女。関係施設へのアンケートでは「児童期に実施された例が多い」との回答もあった。残された記録が十分でない点を考えれば、被害実態はさらに広く、深いはずだ。

「こんな法律が平成8年(96年)まであったことに驚いています」。若手の職員だろうか、福祉関係者の率直な感想も報告書にはある。そうなのだ。後からみれば異様でも、渦中では見過ごす。メディアも含め、常に省みなければならぬ。多数者が「要不要」で少数者を置き去りにする。前世紀の昔に済んだ話ではない。

6/19 気づかない日本の魅力

都内でフォークソングなどに描かれることの多い街が高円寺だ。古アパートに若いミュージシャンがギターを肩に路地を歩く。「高円寺駅で降りることが誇りだった」。中島卓偉さんの歌「高円寺」の一節だ。吉田拓郎さん、竹原ピストルさんにも同名の曲がある。

音楽だけでなくさまざまな分野のクリエーターが多い。古着屋やカフェも増え銭湯も健在だ。商店街など街の人の目も温かい。そんな高円寺を東京観光財団が訪日観光の目玉の一つに推している。海外の旅行業界関係者を招くと「東京の素顔にふれられる」と好評で、さっそく高円寺体験を組み込んだ日本ツアーが登場した。

既存の観光名所を駆け回るのではなく、その土地に入り込み、そこに住む人たちと語り合い、暮らすように旅をする。そうした地域に根ざした旅はコミュニティベースドツーリズムと呼ばれる。米ニューヨークは市内の多種多様な民族文化を体験する旅を海外に売り込む。タイも政府がこの種の旅行企画を後押ししている。

初めての来訪客は首都や有名な観光都市に足を運ぶ。次に知りたいのはふだんの姿であり普通の人々だ。東京観光財団とともに高円寺ツアーを練ったじゃらんリサーチセンターの松本百加里研究員は、当たり前すぎてアピールしきれていない魅力が日本にはたくさんあると説く。観光立国のカギは私たちかもしれない。

6/18 仕事のやりがい

「課長、ヤリガイお磨きいたします!」。背中に大きな貝を生やした若手社員が上司の背中にとっついた貝をキュッキュとふき始める。自分のに比べてずいぶん小ぶりだが、実直そうな彼は気にしない。1985年ごろに流れていた求人誌のテレビCMである。

キャッチコピーは「大きくしたいな、あなたの、ヤリガイ。」。たわいない駄洒落だが、今見返すとなかなか味わい深い。時代はちょうどバブルの入り口。終身雇用が当たり前で非正規社員は少数だった。86年に法律ができ派遣の職種が広がる。転職誌も次々と創刊された。労働市場が流動化へと大きく動いた時期だった。

仕事のやりがいって何だろう、と多くの人が立ち止まって考えた。この「働きがい」を今風に言い換えたのが「エンゲージメント」だ。先日、役員報酬を従業員のエンゲージメントに連動させる企業が現れたと本紙報道で知った。なぜ、何のために一緒に働くのか。こと改めて確認し意欲を高めなければ社員は離れていく。

それだけ働く側の選択肢が増えたという証左でもあるのだろう。だれもが背中の貝の大きさを思い浮かべながら、自分にふさわしい居場所を探している。ちなみにCMの課長さんのヤリガイは、磨かれているうちにポキッと折れてしまう。社員は大慌てするのだが、本人は全く気づかない。こんな上司、昔はよくいたよな。

 

6/17 失われないアーティストの魂

ビートルズの解散後、何をすればいいのかわからずに、落ち込んでいた。ポール・マッカートニーはかつて英BBCの番組で、音楽そのものをやめようとさえ一時思ったと告白した。ずっと一緒だった仲間たちとの別れも響き、酒におぼれることすらあったという。

当時の妻のリンダの励ましもあり、活動を再開することができた。メンバーのジョン・レノンもソロ活動でファンを魅了し続けたが、名盤「ダブル・ファンタジー」を発表して間もなく凶弾に倒れた。音楽史に名を刻んだこの2つの才能が、解散から50年の時を経ていま再び「共演」することになった。

BBCのラジオ番組で最近、ポールが「ビートルズ最後のレコード」をリリースすると発表した。人工知能(AI)を駆使し、レノンが残した音源から声を抽出して完成させたという。「ポールへ」とのラベルを貼ったカセットテープに入っていた曲という。盟友に託した歌声が、もうすぐ私たちのもとに届く。

20世紀のドイツの哲学者、ヤスパースは「身近な人の死」について考察し、「破壊されるのは、現象であっても、存在そのものではない」と記した(「哲学」)。私たちの心に寄り添うアーティストの魂は、いつまでも失われない存在の象徴だ。よみがえったビートルズの音楽は、混迷する時代をどう照らすだろうか。

6/15 図書館司書の物語

スポーツ選手や芸能人らの「名鑑」はなじみがあるが、こちらはやや意表をつく1冊だ。昨年11月に出版された「司書名鑑」。図書館を裏方として支える31人へのインタビュー集である。図書館との出会い、本を介した人との交流が個人の物語としてつづられる。

岩手県紫波町図書館の手塚美希さんは、本屋も鉄道もない秋田県の過疎の村で育った。あらゆる情報があって老若男女が集える。そんな図書館をつくろうと司書を目指した。紫波町の図書館は地元出身の植物採集者の企画展示、農業情報の提供、飲食ができる読書テラスなど型破りな取り組みで有名だ。

全国の公立図書館は3300館を超す。いまや本の貸し借りにとどまらない。近年は地域の記憶を記録、町の「集会所」の役割も果たす。市民の3.11の体験をアーカイブする仙台市せんだいメディアテーク。ホワイトボードと付箋で地域の情報交換を促す島根県西ノ島町の図書館は、コロナ下も可能なかぎり開館した。

志あるスタッフなしにできる活動ではない。ところが公立図書館職員の76%は非正規の雇用という。日本図書館協会が今月、処遇の改善を各自治体に要望したと発表した。日本では司書が単純労働の非専門職種と考えられがちなことも背景にあろう。彼らの人生の物語の続きが不安定な雇用や低い待遇であってはいけない。